中日新聞に、高校27回 浅野満氏の記事が掲載されました。


愛知水泳協会会長の浅野満さん(七十九歳)=天白区高島は、1952年のヘルシンキ五輪の競泳代表だった。
大会前に調子を落として出場を逃したが「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた故古橋広之進さんをサポート。
傘寿を控えた今も、子どもたちに水泳を教える。戦争を乗り越えて水泳にかけた青春を振り返り「頑張れば五輪に行けるかも」と語りかける。
ロンドン五輪で北島康介選手ら日本競泳陣が、戦後最多の11個のメダルの獲得を決めた六日。
浅野さんは、中区の県体育館プールで愛知水泳協会が毎年夏に開く水泳学校で、小学生を指導していた。
「顔を水につけて」、「息継ぎを覚えれば苦しくない」。初心者の子どもたちへの気配りも忘れない。
中区錦で生まれ、第二次世界大戦中の小学三年で協会が開く水連学校に入ったが、まもなく戦況悪化で休校。
四五年三月の名古屋空襲で、実家周辺は、火の海となった。
防火水槽の脇に身を隠した時、そばにいた人が、焼夷弾の直撃を受けて即死した。
すでに父親は病死し、家業のうどん店を再開するのは難しかった。
七歳上の兄が進学をあきらめて工場に就職し、家計を支えてくれた。
そのおかげで中京商業学校(現中京大中京高校)に入学し、競泳の練習を本格的に開始。
極貧の中、学費や寮費を出してくれる家族の苦労に報いようと、毎日、2?3万メートルを泳いだ。
敗戦国・日本が出場を許されなかった48年のロンドン五輪。
同時期に行われた日本選手権で、古橋さんらが五輪メダリストを上回る記録を連発する姿に酔った。
三年後、ヘルシンキ五輪の代表選考レースの自由形で上位入賞し、
あこがれの古橋さんとチームメートになった。
だが、長時間の飛行機移動による疲労で、
本番直前の練習で実力が発揮できずに補欠に回った。
全盛期を過ぎ、満身創痍だった古橋さんの体にマッサージを続け、400メートル自由形の決勝で
八位に終った直後にプールサイドからタオルを渡した。
私に順位を尋ねた古橋さんは『そうか』とだけ言われた」と記憶をたどる。
それから六十年。早稲田大を卒業後、地元の海運会社やスイミングクラブに勤務。
60歳で定年退職後、協会の水泳学校の指導者となって二十年間で、延べ三万人以上の子ども教えてきた。
四年に一度の五輪の夏は、教え子から「先生、五輪選手だったんですか」と聞かれることも。
「北島君たちが立派な成績を収めてくれて励みになるね。
私も大好きな水の中でもう少し頑張るよ」